
私は算命学を学んでいるけれど、命式を拝見して自分の命式とは合わないから。という理由で人と付き合うかどうかを決めることはない。
算命学の下に立って生きることはちょっと宗教的な様相を感じてしまうし、
必要な経験を排除してしまうのでは?と思うこともある。
失敗をしない人生ほど怖いものはないです。
実は、最近結局これなのか。。。
と久しぶりに自己愛性パーソナリティ症であろう人からの攻撃を受けてしまって思うことがあった。
実は私にとって己土は忌神。戊より己と思うのは感覚的なものです。
その己を5つも持つ人だった。
いやいやいやいや、これは…と思ったのだけれど、それで人を判断するなんてと考えていた。
実際、私にとってその人は何とも哀しい人で、いくら幸せだと言っていてもそんな風に感じたことがなかったし、
そのようにふるまうことで、大きな痛みに蓋をする、それでやっと生きている状況の人のように感じていた。
また、独特な人との距離感や思考回路の人ということも知っていた。
だけれど、そんな人は世の中たくさんいるし、それに合わせて関わること、大切なことは振り回されないことだろうとも、
思っていたのだった。
ところが日に日に歯車が狂いだす。
子育てと通常の午前中の仕事、副業は忙しさの波が一定しないし区切りのないもの。
私は子どもたちの心に合わせなければいけないし、やるべきことをしなければならない。
大人の遊び方だよと話していたのに、要求が多くなりおかしな発言がぶつけられるようになる。
大切に頑張ろうとしていたことに介入され(入ってくるのは問題ないのですが)、
多くの周りの人に迷惑をかけることになったり。
手伝うよと声をかけてもらったことも、お願いしてやりとりをする中で、
関係する各所について否定され(私にはどうにもならないこと)、持論を永遠に聞かねばならず、
結局私がぎりぎりのところで自分で徹夜して作り直すしかなかったということもあった。
時折、困っている人の話の中で過去に自分が功績をあげた恩恵を受けているのだから、
文句を言うな、と強い語気で周りの人を否定する発言も目立つようになる。
その中で、「~に褒められた」と嬉しそうに言う場面があった。
そうか、この人はもっと自分を認められる舞台に立ちたいのだな、と思う。
でも、それは私には用意できないし、これ以上一緒にいることは難しい。
そして離れようとした後、いつまでもメッセージが届く。
返事をしなくても続く。
その内容に違和感を覚える。これは自己愛性パーソナリティ症そのものなのだ。
情報を遮断していても嘘をついてあちらこちらで語っていることも耳に入る。
これはもう仕方ないけれど、やっぱり傷つくし知っていてもらいたい人が私にだっている。
そういう話なのだ。
本人も必死だと思う。
自分で自分を誇大評価していたいのに、セルフでできない状態の人なのだから。
でも、もう傷つく必要はないよね。ってタゲられた私は思ったし、
結局忌神の多い人という理由はあるかもしれない。
でもそれだけじゃない。
何かが多い=偏りの大きい人って自分の好きなことに健やかに向かって偏っていくこと。
そんな生き方をしないとどこかが壊れていくのではないかな、と思う。
人と比べないくらい夢中になれることがある人、つまり孤独にも強いということ。
孤独にも強いから誰かと何かができるということ。
強く強く感じている。
アラフィフも幕開け。いつも助けてくれたり、気遣ってくださる方の幸せを
こころから祈る朝です。
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