算命学の鑑定をしているときにふと思うことがあります。
まずはその命式の方の才能や考えることから始まります。
その先に提案や予測を相手に伝える場面がどうしても多くなるのですが、いつもそれには慎重でありたいと考えるのです。
確かに後天運の通りの後押しは起こっているのでその通りになっていた、的中していたような感覚を持つことが多いです。
何だかもう起こることが決まっているかのような、そんな感覚になりそう。
実際どんな後押しのエネルギーであるのか構造的にも説明されていて、それはそうだな、と言いたくなります。
でも、人は自分の心があって、自分で決めて生きていけるという事実を忘れてはいけないよね、とも思います。
未来が決まっているのなら、わざわざ知ってがんばる必要がなくなる。
決まっていないからこそのこともある。
人の頑張る力の意味の大きさ。
と
完全自由、自分の努力だけで物事が起こっているわけではない(何かしらの運やタイミングの力もあるということ)
身を任せるしかないこともある。
その2つのパラドキシカルなことの答えは令和になった今でも出ていないのが実際のところですよね。

ではどうして算命学で鑑定をするのか。
人生・世界は広くて未知で不安なもの。そこで命式を見つめることで一人ひとりの物語が浮かんでくるのも確かなのです。
その浮かんできたものを得た人が一体どのような可能性を感じて、人生を、物語を選び紡いでいくために使うためなのだろうと、そんな風に思う今日この頃です。
選ぶことも決めて動くことも算命学自体や鑑定士がすることではないのだよな、ということ。
伝え方を慎重にしていくこと。
この2点はこだわっていかなければいけないなと思っています。
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